言語化と可視化



 学問が、いつの間にか言語化、数式化する事から可視化に向かってしまった。言語を理解する事、数式を理解する事から乖離していっている。

可視化というのは、大衆に向けて、消費行動を促すときに、物欲の肥大化を目的に、マスコミが、テレビを通して始めてきたことであり、宣伝広告は可視化を求めていた。

可視化によって。理解するということは、物質的世界としてこの世を理解するということであり、プラトンとは真っ向から対凛月するこの世界を物質中心に理解することである。

日本という国で、特にこの傾向が平成という時代に突出して強まったのは、オウム事件など、又は、公教育においては、教科書の可視化を推し進めて、人間ではなく、消費者を育てること、自分の頭で判断できる抽象思考が出来ないが、他の人と、同じ物を持つことによって、安心する社会主義的な思考しかできはい人を結果的に、育てることになったと思う。

神がいない世界、物質や金がすべての世界、そして平等が、絶対的に正義である世界が、社会主義共産主義に向かわないとしたら、独裁者が存在しなければならない。

教育のイデオロギーとして、教育基本法は、人格の完成という目に見えない、きわめて民主主義的な目標を冒頭に掲げているので、法律としては、完全に日本は民主主義である。

日本は、実は、明治時代に、立憲君主制度という民主主義を採択したのであり、民主主義とは、身分制度と、特に矛盾するものではない。

立憲君主国家のイギリスでは、1990年代に入ってから、日本でのアンチアパルトヘイト運動で知り合った人の中にも、名刺に職業ではなく階級が書かれていた人もいて、階級と職業の2つの社会的な立場があるので、おそらく職業選択の自由は基本的に全ての人に認められ、選挙権も平等に全員が一票だけ持つというところが、民者主義的な平等社会を体現しているのであり、公私を峻別し、会社組織や、関係性が、プライベートな領域でも、個人の自由を抑圧したり、制限する事にすることへの一定の歯止めになっているのではないか?と考えるに至った。

職業的な組織の中での上下関係は、歴史的なその人、生来の持つ身分の上下関係と必ずしも一致するわけではない。職業上の身分の上下関係というのが、身分にまでつながり、絶対的な上下関係になるのは、一般的な民主主義国家では軍人の場合だけである。軍人は、一般的に勤務時間というものによって講師を規定することのできない、私的な領域を事由に持てない存在だからだ。

軍人の世界というのは、職業的な、出世が身分に繫がる唯一の例外中の例外的な職業ですあり、厳密に公私を区別する事の困難なアルシュ特別な世界である。しかし、結婚の自由や人権が、この身分を持った存在に許されるなら、王や天皇という身分を持った人間もそれと同程度の自由を認めるのが適当ではないか?

王や階級制度を破壊すると、軍人が大抵は独裁を始め、最終的には自ら王となる、という事が、世界史の中であらゆる国で歴史的におこってきているのは、軍人というものが、必然的に身分性を帯びていて、同じ身分を持つ者同士の利害が反することが多いからだ。

絶対王政という権力の集中を、独裁者という又別の野心家に任せても、システムとしては全く同じことであり、王になって国家を私物化する権利が、血統的に何の根拠もない野心家の軍人の手に渡り、最初は、一見誰もが王になるチャンスを、持てるかのように国民に期待を与えても、結局は、その独裁者が国王を名乗り始め、再び絶対王政と同じ血統的な、王家として階級化していく事が歴史の中にあらゆる国家でしばしば観察される。

カトリックは貧者のためにあると一般によく言われるが、旧約新約を通して語られているのは、民族的な敗者の歴史であり、敗者が如何にして民族的な統一と、伝統を守り、国土を亡くしてなお、希望を失わず、曳航に導かれ成功を勝ち得るか、という、ダビデ王、ソロモン王の時代、いったんは勝者としてこの世に敗者であった民族が君臨するようになった過程と、再び敗者となってゆく過程、また再度ダビド王朝の復興を、正当な王朝の後継者たる血統を持ち、才能豊かなイエス・キリストに託して、当時のユダヤ民族の多くが、この世での王を求めて、属国である状態からの開放と、独自の民族的な王を、求めていたことがよく理解できる。

宗教的なあるいは神学的視点を無視して、一半の歴史的な視点から見ると、イエス・キリストという人が、当時の現世的な人々の期待とは、全く逆に、何故いったんは栄えていたユダヤ王朝が滅んだのか、に焦点をあてて、人々が、群衆である限り、どんなに正しい律法を持っていても、その解釈や、その運用に際して、運用する側の権威や権力、物質やお金に囚われていることによる腐敗が国体を滅ぼしていくことに警鐘を鳴らしているように思う。人間は、霊的な損材でる事と、ユダヤの血という特権的な誇りある民族的な掟や習慣と、異邦人に対する考え方や態度、異邦人への排斥は、自分がその社会の掟に忠実で評価されたいと、その集団の中の掟に忠実に正しくありたいと頑張っている人ほど、強くなる。自律ではなく他律的に自分を殺して生きている人は他者の自由や、他者の考え方を受け入れる余裕がなくなってしまう。自らを、守ることに、汲々としている人は、健全な批判精神が、組織や社会、国家として有益なのだ、という考え方を受け入れられず、一切の体制批判を許さない。民主主義国家においては、人間も組織も常に一定の健全な批判を必要とし、それが、腐敗を防ぐと考えるが、その組織にとって、あるいは国家にとって有益な、愛国的な愛車的な批判や変革を求める意見をも封殺するのが独裁体制。国家や組織の私物化が独裁体制である。

 

カトリックでは、清貧、純潔、従順の3つの誓いを立てて、いわゆる聖職者の召出しに応えたり、修道会で共同生活を送ることがある。この社会主義共産主義的な態度を、民主主義が存在する中で行う事は、清貧を目指して、貧しい事を目的に神に近づく為に自ら志向し、判別のつかない子供を、巻き込んではならない。自らの意思で、例外的に合理的に貧しくなる道を歩んでいる人達であり、独身主義を貫き、そこに子供は、含まれていない自由意志により限られた空間と人々の間だけに減退された組織なので、全ての人にそれを求めているわけではない。厳しい宗教的修行を目的にした自発的な大人だけの貧しさを求めた生き方を正義としている社会主義共産主義的な宗教共同体と、国家や政治的イデオロギーとしての社会主義共産主義は、全く別の次元で判断されるべきであると私は考えている。

基本的に宗教組織の出家修行にそういう傾向はつきまとうが、子供や判別の付かない人を無理矢理引っ張りこむ事は論外である。カトリック教会法も、そのような事を許可していないと思う。

カトリック思想には、ギリシャプラトン等も影響を与えているのに比べ、社会主義共産主義というのは、精神主義を全面的に否定し、抽象概念を可視化することは、真に正確な抽象概念の歪曲や不完全さに関与してしまうので、出来るだけ可視化や物質化を避けることこそが絶対的な真理を理解することであるという主張をしていた。

肉体の一切介在しないプラトニックラブに象徴されるような絶対的精神主義である。

このプラトン主義と真っ向から対立したのは、ビートルズ、ヒッピー等のフリーセックス、大麻文化に象徴されるような、肉体開放者の論理である。John Lenon のloveにlove is touch というフレーズが出てくる。これはプラトンの考える恋愛と、ジョン・レノンの考える恋愛は、全く異なり、ジョンレノンは実際の肉体の伴わない恋愛は、恋愛ではないと考え、昔のマドンナに対する騎士団の愛情なども全て古い間違ったものと考え、現代人にとっては、肉体や肉体が感じる感覚というもの、目の前にいる生身の人間と肉体を通したやり取りが恋愛なのだ、と主張し始めた。

1960年代から1970年代に世界中で起こった自由革命、若者による旧秩序の破壊というのは、民主主義をファッションとして可視化し、プラトン主義から脱却した肉体に依存した自我形成や肉体の欲求こそが本物なのだ、というフリーセックス等も含めて、貴族的なスノッブな秩序や価値観を破壊することであったと思う。商業主義と結びつき、世界中に、旧体制的な秩序に縛られたモラルは古い、という戦後の新しい価値観として急速に広がったと思う。

要するに全ての人が肉体的な自意識を持つことは可能だが、全ての人に、精神的な自意識を持つことを要求することは無理であり、古い精神世界を伴う秩序そのものが、別の秩序との対立や争いをもたらすので、平和を、秩序なき愛の世界と定義しようとしたのではないか?

しかし、ジョンレノンとオノ・ヨーコサルトルボーボワールのように、ふたりの男女の関係自体が独特な哲学的なものである場合にのみ、旧世界から開放された秩序なき愛は成立し得るかもしれないが、一般的な人々にこのような事が広まっていくと、もっと動物的な、暴力的なものに変質してしまい、フリーセックス等は特に女性を社会的な規範により肉体的に守られる事から遠ざけ、又は、自らの女性性、いわゆる女子力を磨くことを下品で娼婦的な恥ずべき行為とは思わなくなり、男女共に性的欲求を恥とも思わず、前提に、そこに迎合したりつけ込んだりして、恋愛が即物的な物になり、結婚が功利的な物になり、純粋な美しいものからは遠ざかってしまったと思う。結婚とは、人格と人格の神秘的な結びつき、自由恋愛を認めるために、すべての若者に過程を作り得る経済的なシステムを整え、高度成長期には先申告及び日本でこのようなシステムが一定の成功をおさめたと思う。

子供を、育てる家庭というものを作る力を若い全ての男女に保証するシステムが崩壊してしまうと、無責任に、無秩序な肉体的な恋愛という概念だけを取り入れたことの弊害に社会も個人も大きく悩まされる事になった。

どちらかといえば、プラトニックラブしかし許可せず、手をつないだら結婚しなければならないという古い世代のアッパークラスの血統を、守るための厳しい性的モラルが一般に浸透していた日本の性的モラルを大きく破壊し、大切に育てられ、守られてきた目の前の女性は、誰かの孫娘であり、娘であり、将来の母親であるという想像力の欠如が、日本社会の若い人々を、幸福から遠ざけていると思う。そのような視点が欠落して、女性を物として性的対象とみなす事を社会が、若者の幸せな恋愛や、結婚、家庭生活トイウコトヲ不可能にし、経済的な発展が失われた負の側面だけを若者が、特に若い女性が、負わされるようになった。又はそこに戦略的に若い自分の肉体を武器に、娼婦のように異性に取り入ることが、別に悪徳でもなんでもなく、ごく当然の打算的な当たり前の事になってしまった。

公の娼婦制度を廃止して、全ての女性に娼婦性を持つよう社会が、要求し始めたのとであれば、娼婦的な方法でのし上がることが最も合理的な必勝法であり、性的魅力に溢れた女性がより良い生き方をするために、それを利用しない事が愚かな頭の悪いことだとされるようになってしまった。

人間として対等に男性に負けない力を持つことよりも、女子力をアップする事が大切だと一般的に考えられるようになり、大量のファッション雑誌が並び、美しくなることに血道を上げる、美容競争のような事がおこってしまっているのがその象徴的な事かもしれない。

しかし、それは限られた美しく生まれた人にだけ有効な手法であり全ての人の必勝法ではないのは明白だ。

DNAに関与しない、美しさなど、次世代に引継がれるDNAに書き込まれた美しさに比べたら、束の間のアバンチュールには役立っても、結婚して子孫を残すことに関しては無価値に等しいのは当然である。

男性が、女性の美しくなる努力に女性に比べて遥かに冷淡な傾向が強いのは、結婚して子孫を残す際のDNAにとっては、全く無価値であることを本能的に評価しないためであるのではないか?なるべく若い人を、と望むのも同様に、子孫を残せる確率の高い人を選びたいためだ。

DNAは、歩き方や、姿勢の良さ、話し方、食事のマナーなどを決定するわけではないので、DNAによって決まるわけではないが、親から子へと伝える事が可能な良き家族的伝統という部分に努力を傾けることの方が、有効だと思う。

特に幼稚園も3年保育となり、早くから座る姿勢や、歩き方、食べ方、話し方などを、この世の集団生活の影響を受ける度合いが各家庭の伝統や教育にも及ぼすので、幼稚園の先生や保育園の先生になる人達は、この点は心しなければならないと思う。

学校の先生なども、今は一方的に生徒に黙らせて、自分が話して授業をするわけだから、本当は専門的な日本語の訓欄というものをした方が良いと思う。

今、英語の話す、聞く能力について問題視されているが、日本の教育には、母国語をきちんと話すという、日本語を話す教育が抜け落ちている。そして、各世代、各地域、各家庭の中で語られてきた日本語だけしか理解できないので、統一した日本国内として通用する話し言葉が消失してしまっている。

しかし、結婚とは、本質的に、子孫を残すことだけが目的なわけではない。

誰かと共にそのためであり時代や空間を生きる幸福が存在するように、自分とは異なる人と共に協力して、人格の完成に向かって関わり合う事が目的だ。

親の愛状を得られなかった人が、結婚によって、結婚相手と親子のような愛情関係を築いている場合は、子供がいなくても、当人達は満足し降伏であることもオオイ。子供が出来ると、親の愛を取り合うようなライバル関係に陥り、不幸になることもある。

いずれにしろ、結婚は、私的な個別的な事柄なので、一般論では論じられず、個別的にその事情に細やかに配慮して論じなければならない。

しかし、可視化しないとわからないという風鳥が若い人の恋愛や結婚に際して、相手を大切にされている誰かの孫娘、母親に大切にされている娘、亡くなった日本兵の守っている子孫、という想像力が働かなくなっているのではないか?可視化しないとわからないという人は、女性も同じ人間である、という当然の事を否定した男尊女卑的な傾向を持つことがある。可視化ということを正当化すると、目に見えて違うものは違うと、考えるようになってしまうので、人種差別主義者になる傾向も強くなる。

 

公という概念が消失して、私的領域と公の領域の判断がつかない領域では、明確な法律的根拠に立脚したり、論理的な理論による際論が行われず、権力闘争のような小競り合いが常に行われる事になる。

それは自分勝手な法的論理的に何も根拠のない親分に従っているからおこる現象であり、このような原始的な組織は、宗教、スポーツ、その他如何なる属性を持っていても非合法組織へと変質しやすい。

公的な空間であるマスコミ、主にテレビの中にも、公に昔は視聴率を競い合うだけではなく、各テレビ局独自の傾向があり、東京12チャンネルと一般に呼んでいたチャンネルに対して期待するものと、NHKに対して期待するものは明白に異なっていた。昔は、堅苦しい啓蒙的な事が嫌いなら、各々自が、自分の趣向に合わせてチャンネルを選べば済む話だった。

何チャンネルヲ見ているのか、その番組が娯楽的かどうか、どのタレントが出ているか、各局により、違いがあり、各局は、それぞれことなる理念を持っていたと思う。面白くなければテレビではない、とはおかしな言い草であり、少なくとも、面白くなければ何チャンネルではない、というべきであった。

宣伝広告の手法とは全く異なる、大衆迎合、しないのがNHKという公共放送のはずであり、日本社会に、公という意識、プライベートチャンネルとの圧倒的な差別化を図るための視聴料だったはずだが、視聴者に阿るようになり、視聴者をコントロールするマスコミという権力車になってしまった。

一昔前は、そもそもNHKに、民法と同じ気晴らしの娯楽を求める人はいなかったので、笑点のような特殊な娯楽がNHKらしいと思う。NHKは、番組を作るにあたり、公共とは何かをきちんと国民に説明すべきであり、私的に許されることと公的に許されることが違うということを納得してもらい、公的なモハンを示さなければならない。

収入源に対する迎合的なサービスを行う事を使命とするのであれば、それは公共とは呼べない。そのような俗悪な者を全員が支える筋合いはない.。公共というのは、大衆が求めることの中にも、善悪の分別、つまり全員が共有すべき明白な正しい事と、個人的な趣味として許されるが全員に、共有すべきでない事を峻別し、好き嫌いで大衆が動くことを抑制し、誰かの権利を侵害し、理不尽にスケープゴートを作り出すような群衆心理を啓蒙抑制するような良質な番組を、作らなければならない。

公共とは、好き嫌いによって、法律によって守られている個人の権利を侵害してはならない領域の事であり、私的に独自に定めた事柄を公共の領域にまで及ぼすことは、公的機関の私的支配であり、それは、法治国家としての日本国と日本国民が指摘支配に乗っ取られることである。

それは、宗教、スポーツ、会社、などの如何なる属性をもっていても、反社会的な存在であり、統一された民主主義の法治国家としての秩序を破壊されつつある事だ。

カトリックの教会法のように、主なる民主主義国家の法律と矛盾しないように長期間に渡り工夫されてきた、組織の権力者も含めて従うべき明確な法律が、どの組織にも存在するのかどうか不明だが、一般的に暴力団が国家に排除されているのは、国家の法律を無視して自分たちの掟だけに、従っているからである。私的に空間や人々を不当に合意なしに支配することは、本質的には同じことである。

日大の部活事件などに象徴されるような、体育会系というものが、軍人的な上下歓迎を絶対とする不条理の押し付けがまかり通るような私的支配であるならば、その組織内では日本国の法律よりも組織の掟が優先する領域なので、容易に日本国の定める、犯罪行為を命令し、独自の組織の支配者や掟への忠誠心を試される類のものは、全て反社会的勢力というカテゴリーに振り分けられる。

オウム真理教の論理も、宗教の問題ではなく、日本国の法治国家としての法律を無視して、独自の教団の掟や独自の論理を優先し、日本国の法律よりも、独自の阻止機の長への忠誠心を求めた事が、大量の殺陣やテロ行為に繋がり、反社会勢力として問題になったのである。

公私混同ということを、ぜったいにしてはならない事、としてきちんと理解していないと、最終的には、人々は、私的支配に従属しているのか、公的な秩序を守っているのか全くわからない状態になってしまうことになる。

私的に沢山の人びとを従属させて自分が他人を思うように動かしたいと考える人は、全員が、独裁者になりたがっている訳だから、自分に、有利な掟や、他の人の権利を最小限に抑えてしまう傾向がある。

このような無数のいくつもの領域の私的支配者たちが、存在する世界は、民主主義の多数性を利用して、実際にはポピュリズムから、すでに私的に独自支配をする特定の個人を長とした共産主義体制であることも多い。共産主義とは、独裁政治の別名であり、多様な選択肢が存在しないことと、多様な選択肢は悪であるという思想である。

また、精神世界、スピリチュアルと言うことに、人々が、向かいがちなのは、現実の世の中が、即物的な傾向を強め、教育の中でも、可視化を極端に大きく肯定して、精神的な物を抑圧しているために逆に人々が、それを救いとして求めているからではないか。

現実的に、日本国の物質的な資源は少く、原発という基幹産業を事実上封鎖した中で、日本国が、国家として可視化を、押し付け、企業の宣伝広告の論理で国民を、人間であることから、限りなく消費者であるように教育しても、全くメリットがない。

沢山の豊富な資源があり、物質的に恵まれている国に対して有利なシステムを真似ても国家としても個人としても全員が不利になり衰退に向かうことは明白である。

全員に理解できないから、アインシュタインは駄目だ、相対性理論は駄目だ、全員が平等に持っている肉体的な、あるいは取得可能なモノだけが本物で正しいことなのだという平等思想に楔を入れて、それはそれで一理あるけれども、旧制中学、高校などでは流行したプラトン主義も排斥されるべきではないのだ。

一般に言語化でき、論理的破綻なく、整合性のある事が正しいわけで、どの程度の多くの人に、共感できるか、理解できるか、ということは正しさとは余り関係がないのだ。物が多くの人に、売れるために必要な経済額の論や、お金にまつわる法則は絶対的正義というわけではない。

政治と経済が学問上切り離されなけれてきたのも、そのためである。そして、学問は勝ち負けではなく、普遍的な真理を求め、愛する心がなければ、競争して勝つこととは本来は余り関係がない。教科書は言語化され、数式化され、十分な論理的説明や知識をなるべく多くすべきであり、公教育の場面で、全ての人に、そのチャンスや選択肢が与えられるぺきである。それ以上の差別化は、個人の脂質によって行われるべきであり、可視化しないと理解できない人だけに、公教育がフォーカスしているのは、NHKが啓蒙を止めてしまったのと同様に、低い方に合わせて、大衆は格調高く高貴になり得ることを否定した、実は大衆を最も馬鹿にした態度なのではないかな?

多くの選択肢を設け、大衆の中にも、きわめて優秀な人とそうでない人が存在するというのが、民主主義の理念ではないのか?

古庄洋子