言語化と可視化



 学問が、いつの間にか言語化、数式化する事から可視化に向かってしまった。言語を理解する事、数式を理解する事から乖離していっている。

可視化というのは、大衆に向けて、消費行動を促すときに、物欲の肥大化を目的に、マスコミが、テレビを通して始めてきたことであり、宣伝広告は可視化を求めていた。

可視化によって。理解するということは、物質的世界としてこの世を理解するということであり、プラトンとは真っ向から対凛月するこの世界を物質中心に理解することである。

日本という国で、特にこの傾向が平成という時代に突出して強まったのは、オウム事件など、又は、公教育においては、教科書の可視化を推し進めて、人間ではなく、消費者を育てること、自分の頭で判断できる抽象思考が出来ないが、他の人と、同じ物を持つことによって、安心する社会主義的な思考しかできはい人を結果的に、育てることになったと思う。

神がいない世界、物質や金がすべての世界、そして平等が、絶対的に正義である世界が、社会主義共産主義に向かわないとしたら、独裁者が存在しなければならない。

教育のイデオロギーとして、教育基本法は、人格の完成という目に見えない、きわめて民主主義的な目標を冒頭に掲げているので、法律としては、完全に日本は民主主義である。

日本は、実は、明治時代に、立憲君主制度という民主主義を採択したのであり、民主主義とは、身分制度と、特に矛盾するものではない。

立憲君主国家のイギリスでは、1990年代に入ってから、日本でのアンチアパルトヘイト運動で知り合った人の中にも、名刺に職業ではなく階級が書かれていた人もいて、階級と職業の2つの社会的な立場があるので、おそらく職業選択の自由は基本的に全ての人に認められ、選挙権も平等に全員が一票だけ持つというところが、民者主義的な平等社会を体現しているのであり、公私を峻別し、会社組織や、関係性が、プライベートな領域でも、個人の自由を抑圧したり、制限する事にすることへの一定の歯止めになっているのではないか?と考えるに至った。

職業的な組織の中での上下関係は、歴史的なその人、生来の持つ身分の上下関係と必ずしも一致するわけではない。職業上の身分の上下関係というのが、身分にまでつながり、絶対的な上下関係になるのは、一般的な民主主義国家では軍人の場合だけである。軍人は、一般的に勤務時間というものによって講師を規定することのできない、私的な領域を事由に持てない存在だからだ。

軍人の世界というのは、職業的な、出世が身分に繫がる唯一の例外中の例外的な職業ですあり、厳密に公私を区別する事の困難なアルシュ特別な世界である。しかし、結婚の自由や人権が、この身分を持った存在に許されるなら、王や天皇という身分を持った人間もそれと同程度の自由を認めるのが適当ではないか?

王や階級制度を破壊すると、軍人が大抵は独裁を始め、最終的には自ら王となる、という事が、世界史の中であらゆる国で歴史的におこってきているのは、軍人というものが、必然的に身分性を帯びていて、同じ身分を持つ者同士の利害が反することが多いからだ。

絶対王政という権力の集中を、独裁者という又別の野心家に任せても、システムとしては全く同じことであり、王になって国家を私物化する権利が、血統的に何の根拠もない野心家の軍人の手に渡り、最初は、一見誰もが王になるチャンスを、持てるかのように国民に期待を与えても、結局は、その独裁者が国王を名乗り始め、再び絶対王政と同じ血統的な、王家として階級化していく事が歴史の中にあらゆる国家でしばしば観察される。

カトリックは貧者のためにあると一般によく言われるが、旧約新約を通して語られているのは、民族的な敗者の歴史であり、敗者が如何にして民族的な統一と、伝統を守り、国土を亡くしてなお、希望を失わず、曳航に導かれ成功を勝ち得るか、という、ダビデ王、ソロモン王の時代、いったんは勝者としてこの世に敗者であった民族が君臨するようになった過程と、再び敗者となってゆく過程、また再度ダビド王朝の復興を、正当な王朝の後継者たる血統を持ち、才能豊かなイエス・キリストに託して、当時のユダヤ民族の多くが、この世での王を求めて、属国である状態からの開放と、独自の民族的な王を、求めていたことがよく理解できる。

宗教的なあるいは神学的視点を無視して、一半の歴史的な視点から見ると、イエス・キリストという人が、当時の現世的な人々の期待とは、全く逆に、何故いったんは栄えていたユダヤ王朝が滅んだのか、に焦点をあてて、人々が、群衆である限り、どんなに正しい律法を持っていても、その解釈や、その運用に際して、運用する側の権威や権力、物質やお金に囚われていることによる腐敗が国体を滅ぼしていくことに警鐘を鳴らしているように思う。人間は、霊的な損材でる事と、ユダヤの血という特権的な誇りある民族的な掟や習慣と、異邦人に対する考え方や態度、異邦人への排斥は、自分がその社会の掟に忠実で評価されたいと、その集団の中の掟に忠実に正しくありたいと頑張っている人ほど、強くなる。自律ではなく他律的に自分を殺して生きている人は他者の自由や、他者の考え方を受け入れる余裕がなくなってしまう。自らを、守ることに、汲々としている人は、健全な批判精神が、組織や社会、国家として有益なのだ、という考え方を受け入れられず、一切の体制批判を許さない。民主主義国家においては、人間も組織も常に一定の健全な批判を必要とし、それが、腐敗を防ぐと考えるが、その組織にとって、あるいは国家にとって有益な、愛国的な愛車的な批判や変革を求める意見をも封殺するのが独裁体制。国家や組織の私物化が独裁体制である。

 

カトリックでは、清貧、純潔、従順の3つの誓いを立てて、いわゆる聖職者の召出しに応えたり、修道会で共同生活を送ることがある。この社会主義共産主義的な態度を、民主主義が存在する中で行う事は、清貧を目指して、貧しい事を目的に神に近づく為に自ら志向し、判別のつかない子供を、巻き込んではならない。自らの意思で、例外的に合理的に貧しくなる道を歩んでいる人達であり、独身主義を貫き、そこに子供は、含まれていない自由意志により限られた空間と人々の間だけに減退された組織なので、全ての人にそれを求めているわけではない。厳しい宗教的修行を目的にした自発的な大人だけの貧しさを求めた生き方を正義としている社会主義共産主義的な宗教共同体と、国家や政治的イデオロギーとしての社会主義共産主義は、全く別の次元で判断されるべきであると私は考えている。

基本的に宗教組織の出家修行にそういう傾向はつきまとうが、子供や判別の付かない人を無理矢理引っ張りこむ事は論外である。カトリック教会法も、そのような事を許可していないと思う。

カトリック思想には、ギリシャプラトン等も影響を与えているのに比べ、社会主義共産主義というのは、精神主義を全面的に否定し、抽象概念を可視化することは、真に正確な抽象概念の歪曲や不完全さに関与してしまうので、出来るだけ可視化や物質化を避けることこそが絶対的な真理を理解することであるという主張をしていた。

肉体の一切介在しないプラトニックラブに象徴されるような絶対的精神主義である。

このプラトン主義と真っ向から対立したのは、ビートルズ、ヒッピー等のフリーセックス、大麻文化に象徴されるような、肉体開放者の論理である。John Lenon のloveにlove is touch というフレーズが出てくる。これはプラトンの考える恋愛と、ジョン・レノンの考える恋愛は、全く異なり、ジョンレノンは実際の肉体の伴わない恋愛は、恋愛ではないと考え、昔のマドンナに対する騎士団の愛情なども全て古い間違ったものと考え、現代人にとっては、肉体や肉体が感じる感覚というもの、目の前にいる生身の人間と肉体を通したやり取りが恋愛なのだ、と主張し始めた。

1960年代から1970年代に世界中で起こった自由革命、若者による旧秩序の破壊というのは、民主主義をファッションとして可視化し、プラトン主義から脱却した肉体に依存した自我形成や肉体の欲求こそが本物なのだ、というフリーセックス等も含めて、貴族的なスノッブな秩序や価値観を破壊することであったと思う。商業主義と結びつき、世界中に、旧体制的な秩序に縛られたモラルは古い、という戦後の新しい価値観として急速に広がったと思う。

要するに全ての人が肉体的な自意識を持つことは可能だが、全ての人に、精神的な自意識を持つことを要求することは無理であり、古い精神世界を伴う秩序そのものが、別の秩序との対立や争いをもたらすので、平和を、秩序なき愛の世界と定義しようとしたのではないか?

しかし、ジョンレノンとオノ・ヨーコサルトルボーボワールのように、ふたりの男女の関係自体が独特な哲学的なものである場合にのみ、旧世界から開放された秩序なき愛は成立し得るかもしれないが、一般的な人々にこのような事が広まっていくと、もっと動物的な、暴力的なものに変質してしまい、フリーセックス等は特に女性を社会的な規範により肉体的に守られる事から遠ざけ、又は、自らの女性性、いわゆる女子力を磨くことを下品で娼婦的な恥ずべき行為とは思わなくなり、男女共に性的欲求を恥とも思わず、前提に、そこに迎合したりつけ込んだりして、恋愛が即物的な物になり、結婚が功利的な物になり、純粋な美しいものからは遠ざかってしまったと思う。結婚とは、人格と人格の神秘的な結びつき、自由恋愛を認めるために、すべての若者に過程を作り得る経済的なシステムを整え、高度成長期には先申告及び日本でこのようなシステムが一定の成功をおさめたと思う。

子供を、育てる家庭というものを作る力を若い全ての男女に保証するシステムが崩壊してしまうと、無責任に、無秩序な肉体的な恋愛という概念だけを取り入れたことの弊害に社会も個人も大きく悩まされる事になった。

どちらかといえば、プラトニックラブしかし許可せず、手をつないだら結婚しなければならないという古い世代のアッパークラスの血統を、守るための厳しい性的モラルが一般に浸透していた日本の性的モラルを大きく破壊し、大切に育てられ、守られてきた目の前の女性は、誰かの孫娘であり、娘であり、将来の母親であるという想像力の欠如が、日本社会の若い人々を、幸福から遠ざけていると思う。そのような視点が欠落して、女性を物として性的対象とみなす事を社会が、若者の幸せな恋愛や、結婚、家庭生活トイウコトヲ不可能にし、経済的な発展が失われた負の側面だけを若者が、特に若い女性が、負わされるようになった。又はそこに戦略的に若い自分の肉体を武器に、娼婦のように異性に取り入ることが、別に悪徳でもなんでもなく、ごく当然の打算的な当たり前の事になってしまった。

公の娼婦制度を廃止して、全ての女性に娼婦性を持つよう社会が、要求し始めたのとであれば、娼婦的な方法でのし上がることが最も合理的な必勝法であり、性的魅力に溢れた女性がより良い生き方をするために、それを利用しない事が愚かな頭の悪いことだとされるようになってしまった。

人間として対等に男性に負けない力を持つことよりも、女子力をアップする事が大切だと一般的に考えられるようになり、大量のファッション雑誌が並び、美しくなることに血道を上げる、美容競争のような事がおこってしまっているのがその象徴的な事かもしれない。

しかし、それは限られた美しく生まれた人にだけ有効な手法であり全ての人の必勝法ではないのは明白だ。

DNAに関与しない、美しさなど、次世代に引継がれるDNAに書き込まれた美しさに比べたら、束の間のアバンチュールには役立っても、結婚して子孫を残すことに関しては無価値に等しいのは当然である。

男性が、女性の美しくなる努力に女性に比べて遥かに冷淡な傾向が強いのは、結婚して子孫を残す際のDNAにとっては、全く無価値であることを本能的に評価しないためであるのではないか?なるべく若い人を、と望むのも同様に、子孫を残せる確率の高い人を選びたいためだ。

DNAは、歩き方や、姿勢の良さ、話し方、食事のマナーなどを決定するわけではないので、DNAによって決まるわけではないが、親から子へと伝える事が可能な良き家族的伝統という部分に努力を傾けることの方が、有効だと思う。

特に幼稚園も3年保育となり、早くから座る姿勢や、歩き方、食べ方、話し方などを、この世の集団生活の影響を受ける度合いが各家庭の伝統や教育にも及ぼすので、幼稚園の先生や保育園の先生になる人達は、この点は心しなければならないと思う。

学校の先生なども、今は一方的に生徒に黙らせて、自分が話して授業をするわけだから、本当は専門的な日本語の訓欄というものをした方が良いと思う。

今、英語の話す、聞く能力について問題視されているが、日本の教育には、母国語をきちんと話すという、日本語を話す教育が抜け落ちている。そして、各世代、各地域、各家庭の中で語られてきた日本語だけしか理解できないので、統一した日本国内として通用する話し言葉が消失してしまっている。

しかし、結婚とは、本質的に、子孫を残すことだけが目的なわけではない。

誰かと共にそのためであり時代や空間を生きる幸福が存在するように、自分とは異なる人と共に協力して、人格の完成に向かって関わり合う事が目的だ。

親の愛状を得られなかった人が、結婚によって、結婚相手と親子のような愛情関係を築いている場合は、子供がいなくても、当人達は満足し降伏であることもオオイ。子供が出来ると、親の愛を取り合うようなライバル関係に陥り、不幸になることもある。

いずれにしろ、結婚は、私的な個別的な事柄なので、一般論では論じられず、個別的にその事情に細やかに配慮して論じなければならない。

しかし、可視化しないとわからないという風鳥が若い人の恋愛や結婚に際して、相手を大切にされている誰かの孫娘、母親に大切にされている娘、亡くなった日本兵の守っている子孫、という想像力が働かなくなっているのではないか?可視化しないとわからないという人は、女性も同じ人間である、という当然の事を否定した男尊女卑的な傾向を持つことがある。可視化ということを正当化すると、目に見えて違うものは違うと、考えるようになってしまうので、人種差別主義者になる傾向も強くなる。

 

公という概念が消失して、私的領域と公の領域の判断がつかない領域では、明確な法律的根拠に立脚したり、論理的な理論による際論が行われず、権力闘争のような小競り合いが常に行われる事になる。

それは自分勝手な法的論理的に何も根拠のない親分に従っているからおこる現象であり、このような原始的な組織は、宗教、スポーツ、その他如何なる属性を持っていても非合法組織へと変質しやすい。

公的な空間であるマスコミ、主にテレビの中にも、公に昔は視聴率を競い合うだけではなく、各テレビ局独自の傾向があり、東京12チャンネルと一般に呼んでいたチャンネルに対して期待するものと、NHKに対して期待するものは明白に異なっていた。昔は、堅苦しい啓蒙的な事が嫌いなら、各々自が、自分の趣向に合わせてチャンネルを選べば済む話だった。

何チャンネルヲ見ているのか、その番組が娯楽的かどうか、どのタレントが出ているか、各局により、違いがあり、各局は、それぞれことなる理念を持っていたと思う。面白くなければテレビではない、とはおかしな言い草であり、少なくとも、面白くなければ何チャンネルではない、というべきであった。

宣伝広告の手法とは全く異なる、大衆迎合、しないのがNHKという公共放送のはずであり、日本社会に、公という意識、プライベートチャンネルとの圧倒的な差別化を図るための視聴料だったはずだが、視聴者に阿るようになり、視聴者をコントロールするマスコミという権力車になってしまった。

一昔前は、そもそもNHKに、民法と同じ気晴らしの娯楽を求める人はいなかったので、笑点のような特殊な娯楽がNHKらしいと思う。NHKは、番組を作るにあたり、公共とは何かをきちんと国民に説明すべきであり、私的に許されることと公的に許されることが違うということを納得してもらい、公的なモハンを示さなければならない。

収入源に対する迎合的なサービスを行う事を使命とするのであれば、それは公共とは呼べない。そのような俗悪な者を全員が支える筋合いはない.。公共というのは、大衆が求めることの中にも、善悪の分別、つまり全員が共有すべき明白な正しい事と、個人的な趣味として許されるが全員に、共有すべきでない事を峻別し、好き嫌いで大衆が動くことを抑制し、誰かの権利を侵害し、理不尽にスケープゴートを作り出すような群衆心理を啓蒙抑制するような良質な番組を、作らなければならない。

公共とは、好き嫌いによって、法律によって守られている個人の権利を侵害してはならない領域の事であり、私的に独自に定めた事柄を公共の領域にまで及ぼすことは、公的機関の私的支配であり、それは、法治国家としての日本国と日本国民が指摘支配に乗っ取られることである。

それは、宗教、スポーツ、会社、などの如何なる属性をもっていても、反社会的な存在であり、統一された民主主義の法治国家としての秩序を破壊されつつある事だ。

カトリックの教会法のように、主なる民主主義国家の法律と矛盾しないように長期間に渡り工夫されてきた、組織の権力者も含めて従うべき明確な法律が、どの組織にも存在するのかどうか不明だが、一般的に暴力団が国家に排除されているのは、国家の法律を無視して自分たちの掟だけに、従っているからである。私的に空間や人々を不当に合意なしに支配することは、本質的には同じことである。

日大の部活事件などに象徴されるような、体育会系というものが、軍人的な上下歓迎を絶対とする不条理の押し付けがまかり通るような私的支配であるならば、その組織内では日本国の法律よりも組織の掟が優先する領域なので、容易に日本国の定める、犯罪行為を命令し、独自の組織の支配者や掟への忠誠心を試される類のものは、全て反社会的勢力というカテゴリーに振り分けられる。

オウム真理教の論理も、宗教の問題ではなく、日本国の法治国家としての法律を無視して、独自の教団の掟や独自の論理を優先し、日本国の法律よりも、独自の阻止機の長への忠誠心を求めた事が、大量の殺陣やテロ行為に繋がり、反社会勢力として問題になったのである。

公私混同ということを、ぜったいにしてはならない事、としてきちんと理解していないと、最終的には、人々は、私的支配に従属しているのか、公的な秩序を守っているのか全くわからない状態になってしまうことになる。

私的に沢山の人びとを従属させて自分が他人を思うように動かしたいと考える人は、全員が、独裁者になりたがっている訳だから、自分に、有利な掟や、他の人の権利を最小限に抑えてしまう傾向がある。

このような無数のいくつもの領域の私的支配者たちが、存在する世界は、民主主義の多数性を利用して、実際にはポピュリズムから、すでに私的に独自支配をする特定の個人を長とした共産主義体制であることも多い。共産主義とは、独裁政治の別名であり、多様な選択肢が存在しないことと、多様な選択肢は悪であるという思想である。

また、精神世界、スピリチュアルと言うことに、人々が、向かいがちなのは、現実の世の中が、即物的な傾向を強め、教育の中でも、可視化を極端に大きく肯定して、精神的な物を抑圧しているために逆に人々が、それを救いとして求めているからではないか。

現実的に、日本国の物質的な資源は少く、原発という基幹産業を事実上封鎖した中で、日本国が、国家として可視化を、押し付け、企業の宣伝広告の論理で国民を、人間であることから、限りなく消費者であるように教育しても、全くメリットがない。

沢山の豊富な資源があり、物質的に恵まれている国に対して有利なシステムを真似ても国家としても個人としても全員が不利になり衰退に向かうことは明白である。

全員に理解できないから、アインシュタインは駄目だ、相対性理論は駄目だ、全員が平等に持っている肉体的な、あるいは取得可能なモノだけが本物で正しいことなのだという平等思想に楔を入れて、それはそれで一理あるけれども、旧制中学、高校などでは流行したプラトン主義も排斥されるべきではないのだ。

一般に言語化でき、論理的破綻なく、整合性のある事が正しいわけで、どの程度の多くの人に、共感できるか、理解できるか、ということは正しさとは余り関係がないのだ。物が多くの人に、売れるために必要な経済額の論や、お金にまつわる法則は絶対的正義というわけではない。

政治と経済が学問上切り離されなけれてきたのも、そのためである。そして、学問は勝ち負けではなく、普遍的な真理を求め、愛する心がなければ、競争して勝つこととは本来は余り関係がない。教科書は言語化され、数式化され、十分な論理的説明や知識をなるべく多くすべきであり、公教育の場面で、全ての人に、そのチャンスや選択肢が与えられるぺきである。それ以上の差別化は、個人の脂質によって行われるべきであり、可視化しないと理解できない人だけに、公教育がフォーカスしているのは、NHKが啓蒙を止めてしまったのと同様に、低い方に合わせて、大衆は格調高く高貴になり得ることを否定した、実は大衆を最も馬鹿にした態度なのではないかな?

多くの選択肢を設け、大衆の中にも、きわめて優秀な人とそうでない人が存在するというのが、民主主義の理念ではないのか?

古庄洋子

日本は民主主義なのか?社会主義なのか?す


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ある日父に、ヨーロッパでは、世間をなんと言うのか?と質問されたので、世間とは何か?と私が不思議に思った。

世間というのは、所謂集団自我である。集団主義の社会に散見される現象であり、ソ連ポル・ポト政権などが、農村共同体から人々を、個人の人格や、他の人とは違う自分を持てないように、組織化された集団自我や集団の中での役割を与え、教育基本法にある個人の人格を完成させる生き方から大きく逸脱した生き方を共用するやり方である。

日本は、中央集権国家であるが、都道府県に教育権等の責任が、分散し、文科省が直接責任を持てないような不思議な仕組みになっている。

これは、昭和22年に教育基本法が制定された後、片山内閣という左翼が政権をとったため、この頃まだGHQの元にいた日本政府は、急速にソ連と近づき、社会主義的な平等思想を国民に、絶対的善であり、幸福なのだと信じ込ませることに成功したのだろう。片山は、労組系プロテスタントクリスチャンと言う事になっているが、私は、左翼系クリスチャンというのを信じていない。

キリスト教は、本質的に、血の宗教であり、旧約聖書は、血統的なダビド王の神との関係に、かなりの部分が割かれ、日本の古事記における神と天皇の血統的なつながりと、よく似たユダヤ神話の様相を呈している。

新約聖書には、イエス・キリストがダビド王の正当な血統の後継者であることが強調されている。カトリックの枝の主日、聖週間の儀式のほとんどが、このようなユダヤの王ダビドの再来としての当時のイエス・キリストを彷彿させるものである。

だから、共産主義社会主義など、王家の血統を嫌うイデオロギーは、キリスト教と相性が悪いはずなのに、日本では、キリスト教と左翼が同じ仲間としてしばしば手を結ぶ。

これは、戦時中に、宗教家も、共産主義者も、同じく投獄されてしまい、本来は敵だった者が、敵の敵は味方とばかりに、同じ釜の飯を食い、仲良くなってしまったと思われる。

片山内閣には、無政府主義者まで組閣されているので、唖然とする。無政府主義者が入閣するのは自己矛盾ではないか?

日本の教育は、片山内閣以前は、マッカーサー主導で、きちんと民主主義的、キリスト教的なエトスで導かれていたと思われるが、キリスト教徒と自他ともに認識している人間が、獄中で左翼化してしまったとは、マッカーサーにもわからなかったのではないか。

片山内閣は、内務省を解体したので、内務省解体後は、常に政策は財源が無いと実現できない事になってしまった。外務省を除く全ての省庁の上に、内務省が鎮座していた頃には、内務省が決めた事に従って、財源をどこにどう使うか決められた。つまり、優先課題を決めるのは内務省であり、財源などは、内務省の一存でどうにでもできる事だったのだ。

現在主要国では、内務省が存在する国の方が多い。韓国でも、2017年に、内務省が出来た為、日本は、民主主義の中央集権国家なのに内務省が存在しない非常に珍しい国である。内閣府は、各省庁の上に存在して、政策決定権や予算配分決定権を持つ訳ではない為、やはり内閣府をもって内務省に代わる存在とすることも無理がある。

内務省解体により、基本的に、警察や、学校などが都道府県単位になってしまい、公安などの特殊な組織だけが、国家の直轄となった。内務省がなくなった為に、お金が無ければ政策も全く実現できない状況になり、人々は、功利的な、唯物的な拝金主義的な傾向を強くしていき、教育基本法に規定された、世界のお手本として尊敬される国民になることで平和を維持するという日本国としての理念がおざなりになっていった。

しかし、教育基本法は、現在でも有効であり、日本人はこの法律を守らなければならない。改定後には、民主的な、とか民主主義という文言が入るらしいので、アメリカ同様、共産主義車でいる自由や、集団主義者でいる自由はなくなる。

現在でも、世間という物差しで、教育基本法を無視して、人格の完成を目指す、という教育基本法を守り、集団化になじまない人を裁くことは厳密には、法律違反である。

現在の天皇陛下が、皇太子時代になされた人格否定発言は、この教育基本法の日本国民の目標を人格の完成に定めている法律とセットで考えると、法的な男女平等の理念と共に、不適切どころか適切な発言であり、国民の大多数が、人格の完成が日本国の教育目標であり理念であると法に定められているのを無視している、或は理解していないという事から一般に理解されなかったのだと思う。

小作に生まれたのが、不運だった、という世界を変えることを良し、として日本の伝統を変えたのならば、女に生まれたのが、不運だった、という世界にしては、ならない。

世界には、女性のリーダーも、沢山台頭してきているし、男女に知的能力の差異はない。女性の方が高いくらいなので、医大など不正に女学生を不利にしないと女学生が多くなるという失笑するような理由で女性に不利になるような不正が行われた。

女性の方が能力が低い、と考える人は、キューリ夫人だけが、異なるジャンルでノーベル賞を2回取り、娘も二人ともノーベル賞を取った。夫、娘婿まで入れると、一家で、6とか7とかすごいノーベル賞の数になっている。

男性では、そこまでの人は一人もいない。ノーベル賞を受賞した男性が、子育てをしなかったのではないか?

一般には、夫婦のうちの頭の良い方が、働きにに出たほうが、沢山のお金を稼ぐ事ができるから有利だと考えられている。しかし、子育てを頭の良い方が担当すると、次世代の子供はより賢く有利になるのではないか。昔は、同じ身分や地位の人同士しか結婚できなかった。今は、階級の違う人同士の結婚が推奨され、先の天皇陛下がこれを率先して行なって以来、国民もこれをタブーとしなくなった。近松門左衛門の心中物を読んでも、身分違いの結婚がタブーだった、或は日本には長い間、身分が伝統的に存在していた、という事を隠蔽していたら、物語の内容が理解できないし、近松文学は死んでしまう。

是非はともかくとしても、近松門左衛門等の文学成立の背景にある、歴史的な事実は事実として、教えるべきであり、イギリスのように階級社会のまま、民主主義を行っている国も存在するので、一概に階級が民主主義に反つした悪とは言えない。血統による階級と職業は全く別であり、今の日本人が絶対善としている平等、或は職業的地位が、血統による階級の不平等性の回復に役立つと言うならば、男女による不平等な社会を消滅させなければならない。階級がなくなって女性の地位はむしろ相対的に階級社会の時より低くなってしまった。そして、日本の伝統、を階級社会ではなく男尊女卑と考えている若い人もいる。教師の中にそのような誤った見識の持ち主がいるのは困る。私達は、平等というものが一体何なのかよく考えなければならない。人間は生まれつき想像以上に異なる。私の目は鈍く、耳は鋭いので、見て羨ましくなることもないし、見て欲しくなることもない。うるさい場所に行くのは苦手だ。宗教施設は、静かなので、商業施設よりずっと私には心地よい。

 

オウム真理教のような宗教が出てきて、神を信じるリスクを私達は、知ったが、神を信じないことも、リスクの一つである。死んでから地獄で苦しむリスクが十分にある。

神が、いない事が証明された訳ではないのに、神を信じないことを科学的と言うのは、論理的に誤りだ。現在のところ、科学は、神をいるとも、いないとも証明していない。科学的な態度とは、神はいない方にかけるか、いる方にかけるか、五分五分だが、どちらかにかけて生きるしかない、ということだ。

しかし、可能性としては、今後、ビッグバンの証明がなされたように、神の存在をきちんと計算式で、質量や実質的に具体的に証明する人が出てくるのではないか、という気もする。ニュートンは、人間の原罪について非常に考えていたのではないか?何故、人間は、リンゴを食べたのか?猿のように気に登って、禁じられていたその実を食べたのか?リンゴが木から落ちるのを見て、何故?何故?そのせいで、リンゴを、食べたのだ、人間は、リンゴが木から落ちるから食べたのだ、では、何故リンゴは、木から落ちるのだろう?これが全ての人間の不幸の始まりだ、と考えたのではないか?そして万有引力の法則を発見したのではないか。

宗教的な人間と科学的な人間は両立しうる。そのような文明の進歩を信じるのが民主主義であり、文明の進歩に対する責任ある国民や国家を持つことで、他国の未来にも貢献し得る人間を育て、国民全体が、支えることで、間接的に私達国民全員が文明の進歩に寄与するという崇高な使命を果たすことになる。

人間には様々なバリエーションがあり、もし、文明の進歩に寄与しない人を役に立たない人間と規定するなら、ほとんどの人間の生きる価値はなくなってしまう。人間の能力に優劣はあるが、人間の生命には優劣はない。エジソンと同時代を生きた多くの無名の人々は間接的に私達に恩恵を与えている。もしエジソンがロビンソンクルーソーのように何もかも自分でやらなければならない環境にいたら、彼には発明する暇がなかったと思われる。

私達は、自分の夢を持ち、自分の夢を叶えなければならないと思わされている。そして、非常に残念なことに、優越感と幸福が混同され、劣等感と不幸が混同されている。

現在の自分自身に満足しても良いのではないか?!人は同じではない。ある人は、きれいになりたいと願うし、ある人は、もっと真実がわかるようになりたいと願う。しやかし、生まれつきの資質に沿って生きる以外には、本当は幸福はない。何歳になってもやりたいことがたくさんあり、もっともっと上手くなりたいと願うこと、他の人の笑顔に癒やされる日々であること、特に他人の子育てに献身的に関わる人は、今の時代には必要な人だ。

学校は、軍隊ではない。学校に、軍事教練をやるために、軍人がやってきて、そのまま体育主任などの名目で、軍人が戦後も学校に残ったという。日本独自の体育会系という精神主義みたいなものは、教育者ではない、軍人が持ち込んだ気質だと思う。

もちろん、現在の体育教師は、スポーツマンシップという、フェアな爽やかな精神を持ち、軍人的な、自分より下の人間を服従させたいという気持ちを持たない人間が、大部分だとは、思うが、体育会系、という言葉自体や、かの日大の事件など、また、数々の事柄を見ると、昔の軍人あがりの人が体育教師として残ってしまった影響が未だに皆無とは言えないのは残念だ。

民主主義とは、軍国主義共産主義社会主義等のあらゆる集団主義と一線を画する。集団主義とは、個人の人格よりも、集団がその人に期待する役割に忠実に生きる集団的自我を大勢で共有する組織化された群衆統治主義である。

群衆心理を巧みに利用して、宣伝、広告を行って、群衆を意のままに操ることを始めたのは、ナチスである。完成された人格を持った人間は、群衆心理とは程遠い感覚でいるので、そんなに簡単に操られない。

第二次対戦は、そもそも王制対共和制の対立軸だったのに、王制が崩れると必ず独裁者が台頭してしまう。世界中の王達が築いてきた安定的な関係が無くなり、独裁者たちが自国の国内での評価ばかりに耳を傾けていたら戦争になる。

これをややこしくしているのが、国家の枠を超えた人種や宗教や言語の対立軸である。そして更にややこしいのが、日本人の世間とか、本音と建前の意識なのだ。

自分というものを持たない人間は、英語も他の西洋言語も話せないと思う。しかも、日本社会にはそのほうが今までは適応しやすかったと思う。それが日本人が、英語を話せない一番の理由だ。日本の社会には、全くフィットしないような強い自我を持ち、人格の完成につとめている人間であれば、中学生から始めても、十分に英語でコミュニケーションを取れるようになる。現時点では、日本社会は、十分に人格を持って、個人として会社や社会に貢献し得る人材を求めていないように思われる。特に女性には、女性特有の役割があるという事にして、求める像が異なるのは賛同できない。基本的に男性も、女性も、同じ人間であり、人格には、性別は関係ない。

日本国民全員が、教育基本法の精神に鑑みて、人格の完成を目指す事を、目標とするならば、文化が隆盛し、経済も発展し、この国は、世界から尊敬され、平和になると思う。

将来、民主主義よりも、更に発展した新しいより良い政治形態が生まれる可能性はあるが、現段階では、日本は、建前でも、本音でも、民主主義を求めたほうが良いと思う。

民主主義の本質は平等ではなく、人格の完成である。

そして世間や多数決よりは、まず法令遵守が先である。法治国家なのに、抽象的な、人格の完成を、目指す等の法律は、守られていないと感じるが、本当は法律違反である。人格の完成を、目指して生きてこなかった日本人は、ずっと、昭和22年にこの法律が施行されて以来、法律違反を犯し続けてきていることになる。法律を守る人を公的な機関は助けなければならない。公的機関の職員は、基本的な法律を知らなければならない。令和天皇は皇太子時代の発言からも、きちんと法律を理解し、女性の人格についても最も基本的な大切なものとして、世の中に良い影響を、与えてくれるのではないかと期待している。

真の民主主義国家になっていくのではないか?