日本は民主主義なのか?社会主義なのか?す


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ある日父に、ヨーロッパでは、世間をなんと言うのか?と質問されたので、世間とは何か?と私が不思議に思った。

世間というのは、所謂集団自我である。集団主義の社会に散見される現象であり、ソ連ポル・ポト政権などが、農村共同体から人々を、個人の人格や、他の人とは違う自分を持てないように、組織化された集団自我や集団の中での役割を与え、教育基本法にある個人の人格を完成させる生き方から大きく逸脱した生き方を共用するやり方である。

日本は、中央集権国家であるが、都道府県に教育権等の責任が、分散し、文科省が直接責任を持てないような不思議な仕組みになっている。

これは、昭和22年に教育基本法が制定された後、片山内閣という左翼が政権をとったため、この頃まだGHQの元にいた日本政府は、急速にソ連と近づき、社会主義的な平等思想を国民に、絶対的善であり、幸福なのだと信じ込ませることに成功したのだろう。片山は、労組系プロテスタントクリスチャンと言う事になっているが、私は、左翼系クリスチャンというのを信じていない。

キリスト教は、本質的に、血の宗教であり、旧約聖書は、血統的なダビド王の神との関係に、かなりの部分が割かれ、日本の古事記における神と天皇の血統的なつながりと、よく似たユダヤ神話の様相を呈している。

新約聖書には、イエス・キリストがダビド王の正当な血統の後継者であることが強調されている。カトリックの枝の主日、聖週間の儀式のほとんどが、このようなユダヤの王ダビドの再来としての当時のイエス・キリストを彷彿させるものである。

だから、共産主義社会主義など、王家の血統を嫌うイデオロギーは、キリスト教と相性が悪いはずなのに、日本では、キリスト教と左翼が同じ仲間としてしばしば手を結ぶ。

これは、戦時中に、宗教家も、共産主義者も、同じく投獄されてしまい、本来は敵だった者が、敵の敵は味方とばかりに、同じ釜の飯を食い、仲良くなってしまったと思われる。

片山内閣には、無政府主義者まで組閣されているので、唖然とする。無政府主義者が入閣するのは自己矛盾ではないか?

日本の教育は、片山内閣以前は、マッカーサー主導で、きちんと民主主義的、キリスト教的なエトスで導かれていたと思われるが、キリスト教徒と自他ともに認識している人間が、獄中で左翼化してしまったとは、マッカーサーにもわからなかったのではないか。

片山内閣は、内務省を解体したので、内務省解体後は、常に政策は財源が無いと実現できない事になってしまった。外務省を除く全ての省庁の上に、内務省が鎮座していた頃には、内務省が決めた事に従って、財源をどこにどう使うか決められた。つまり、優先課題を決めるのは内務省であり、財源などは、内務省の一存でどうにでもできる事だったのだ。

現在主要国では、内務省が存在する国の方が多い。韓国でも、2017年に、内務省が出来た為、日本は、民主主義の中央集権国家なのに内務省が存在しない非常に珍しい国である。内閣府は、各省庁の上に存在して、政策決定権や予算配分決定権を持つ訳ではない為、やはり内閣府をもって内務省に代わる存在とすることも無理がある。

内務省解体により、基本的に、警察や、学校などが都道府県単位になってしまい、公安などの特殊な組織だけが、国家の直轄となった。内務省がなくなった為に、お金が無ければ政策も全く実現できない状況になり、人々は、功利的な、唯物的な拝金主義的な傾向を強くしていき、教育基本法に規定された、世界のお手本として尊敬される国民になることで平和を維持するという日本国としての理念がおざなりになっていった。

しかし、教育基本法は、現在でも有効であり、日本人はこの法律を守らなければならない。改定後には、民主的な、とか民主主義という文言が入るらしいので、アメリカ同様、共産主義車でいる自由や、集団主義者でいる自由はなくなる。

現在でも、世間という物差しで、教育基本法を無視して、人格の完成を目指す、という教育基本法を守り、集団化になじまない人を裁くことは厳密には、法律違反である。

現在の天皇陛下が、皇太子時代になされた人格否定発言は、この教育基本法の日本国民の目標を人格の完成に定めている法律とセットで考えると、法的な男女平等の理念と共に、不適切どころか適切な発言であり、国民の大多数が、人格の完成が日本国の教育目標であり理念であると法に定められているのを無視している、或は理解していないという事から一般に理解されなかったのだと思う。

小作に生まれたのが、不運だった、という世界を変えることを良し、として日本の伝統を変えたのならば、女に生まれたのが、不運だった、という世界にしては、ならない。

世界には、女性のリーダーも、沢山台頭してきているし、男女に知的能力の差異はない。女性の方が高いくらいなので、医大など不正に女学生を不利にしないと女学生が多くなるという失笑するような理由で女性に不利になるような不正が行われた。

女性の方が能力が低い、と考える人は、キューリ夫人だけが、異なるジャンルでノーベル賞を2回取り、娘も二人ともノーベル賞を取った。夫、娘婿まで入れると、一家で、6とか7とかすごいノーベル賞の数になっている。

男性では、そこまでの人は一人もいない。ノーベル賞を受賞した男性が、子育てをしなかったのではないか?

一般には、夫婦のうちの頭の良い方が、働きにに出たほうが、沢山のお金を稼ぐ事ができるから有利だと考えられている。しかし、子育てを頭の良い方が担当すると、次世代の子供はより賢く有利になるのではないか。昔は、同じ身分や地位の人同士しか結婚できなかった。今は、階級の違う人同士の結婚が推奨され、先の天皇陛下がこれを率先して行なって以来、国民もこれをタブーとしなくなった。近松門左衛門の心中物を読んでも、身分違いの結婚がタブーだった、或は日本には長い間、身分が伝統的に存在していた、という事を隠蔽していたら、物語の内容が理解できないし、近松文学は死んでしまう。

是非はともかくとしても、近松門左衛門等の文学成立の背景にある、歴史的な事実は事実として、教えるべきであり、イギリスのように階級社会のまま、民主主義を行っている国も存在するので、一概に階級が民主主義に反つした悪とは言えない。血統による階級と職業は全く別であり、今の日本人が絶対善としている平等、或は職業的地位が、血統による階級の不平等性の回復に役立つと言うならば、男女による不平等な社会を消滅させなければならない。階級がなくなって女性の地位はむしろ相対的に階級社会の時より低くなってしまった。そして、日本の伝統、を階級社会ではなく男尊女卑と考えている若い人もいる。教師の中にそのような誤った見識の持ち主がいるのは困る。私達は、平等というものが一体何なのかよく考えなければならない。人間は生まれつき想像以上に異なる。私の目は鈍く、耳は鋭いので、見て羨ましくなることもないし、見て欲しくなることもない。うるさい場所に行くのは苦手だ。宗教施設は、静かなので、商業施設よりずっと私には心地よい。

 

オウム真理教のような宗教が出てきて、神を信じるリスクを私達は、知ったが、神を信じないことも、リスクの一つである。死んでから地獄で苦しむリスクが十分にある。

神が、いない事が証明された訳ではないのに、神を信じないことを科学的と言うのは、論理的に誤りだ。現在のところ、科学は、神をいるとも、いないとも証明していない。科学的な態度とは、神はいない方にかけるか、いる方にかけるか、五分五分だが、どちらかにかけて生きるしかない、ということだ。

しかし、可能性としては、今後、ビッグバンの証明がなされたように、神の存在をきちんと計算式で、質量や実質的に具体的に証明する人が出てくるのではないか、という気もする。ニュートンは、人間の原罪について非常に考えていたのではないか?何故、人間は、リンゴを食べたのか?猿のように気に登って、禁じられていたその実を食べたのか?リンゴが木から落ちるのを見て、何故?何故?そのせいで、リンゴを、食べたのだ、人間は、リンゴが木から落ちるから食べたのだ、では、何故リンゴは、木から落ちるのだろう?これが全ての人間の不幸の始まりだ、と考えたのではないか?そして万有引力の法則を発見したのではないか。

宗教的な人間と科学的な人間は両立しうる。そのような文明の進歩を信じるのが民主主義であり、文明の進歩に対する責任ある国民や国家を持つことで、他国の未来にも貢献し得る人間を育て、国民全体が、支えることで、間接的に私達国民全員が文明の進歩に寄与するという崇高な使命を果たすことになる。

人間には様々なバリエーションがあり、もし、文明の進歩に寄与しない人を役に立たない人間と規定するなら、ほとんどの人間の生きる価値はなくなってしまう。人間の能力に優劣はあるが、人間の生命には優劣はない。エジソンと同時代を生きた多くの無名の人々は間接的に私達に恩恵を与えている。もしエジソンがロビンソンクルーソーのように何もかも自分でやらなければならない環境にいたら、彼には発明する暇がなかったと思われる。

私達は、自分の夢を持ち、自分の夢を叶えなければならないと思わされている。そして、非常に残念なことに、優越感と幸福が混同され、劣等感と不幸が混同されている。

現在の自分自身に満足しても良いのではないか?!人は同じではない。ある人は、きれいになりたいと願うし、ある人は、もっと真実がわかるようになりたいと願う。しやかし、生まれつきの資質に沿って生きる以外には、本当は幸福はない。何歳になってもやりたいことがたくさんあり、もっともっと上手くなりたいと願うこと、他の人の笑顔に癒やされる日々であること、特に他人の子育てに献身的に関わる人は、今の時代には必要な人だ。

学校は、軍隊ではない。学校に、軍事教練をやるために、軍人がやってきて、そのまま体育主任などの名目で、軍人が戦後も学校に残ったという。日本独自の体育会系という精神主義みたいなものは、教育者ではない、軍人が持ち込んだ気質だと思う。

もちろん、現在の体育教師は、スポーツマンシップという、フェアな爽やかな精神を持ち、軍人的な、自分より下の人間を服従させたいという気持ちを持たない人間が、大部分だとは、思うが、体育会系、という言葉自体や、かの日大の事件など、また、数々の事柄を見ると、昔の軍人あがりの人が体育教師として残ってしまった影響が未だに皆無とは言えないのは残念だ。

民主主義とは、軍国主義共産主義社会主義等のあらゆる集団主義と一線を画する。集団主義とは、個人の人格よりも、集団がその人に期待する役割に忠実に生きる集団的自我を大勢で共有する組織化された群衆統治主義である。

群衆心理を巧みに利用して、宣伝、広告を行って、群衆を意のままに操ることを始めたのは、ナチスである。完成された人格を持った人間は、群衆心理とは程遠い感覚でいるので、そんなに簡単に操られない。

第二次対戦は、そもそも王制対共和制の対立軸だったのに、王制が崩れると必ず独裁者が台頭してしまう。世界中の王達が築いてきた安定的な関係が無くなり、独裁者たちが自国の国内での評価ばかりに耳を傾けていたら戦争になる。

これをややこしくしているのが、国家の枠を超えた人種や宗教や言語の対立軸である。そして更にややこしいのが、日本人の世間とか、本音と建前の意識なのだ。

自分というものを持たない人間は、英語も他の西洋言語も話せないと思う。しかも、日本社会にはそのほうが今までは適応しやすかったと思う。それが日本人が、英語を話せない一番の理由だ。日本の社会には、全くフィットしないような強い自我を持ち、人格の完成につとめている人間であれば、中学生から始めても、十分に英語でコミュニケーションを取れるようになる。現時点では、日本社会は、十分に人格を持って、個人として会社や社会に貢献し得る人材を求めていないように思われる。特に女性には、女性特有の役割があるという事にして、求める像が異なるのは賛同できない。基本的に男性も、女性も、同じ人間であり、人格には、性別は関係ない。

日本国民全員が、教育基本法の精神に鑑みて、人格の完成を目指す事を、目標とするならば、文化が隆盛し、経済も発展し、この国は、世界から尊敬され、平和になると思う。

将来、民主主義よりも、更に発展した新しいより良い政治形態が生まれる可能性はあるが、現段階では、日本は、建前でも、本音でも、民主主義を求めたほうが良いと思う。

民主主義の本質は平等ではなく、人格の完成である。

そして世間や多数決よりは、まず法令遵守が先である。法治国家なのに、抽象的な、人格の完成を、目指す等の法律は、守られていないと感じるが、本当は法律違反である。人格の完成を、目指して生きてこなかった日本人は、ずっと、昭和22年にこの法律が施行されて以来、法律違反を犯し続けてきていることになる。法律を守る人を公的な機関は助けなければならない。公的機関の職員は、基本的な法律を知らなければならない。令和天皇は皇太子時代の発言からも、きちんと法律を理解し、女性の人格についても最も基本的な大切なものとして、世の中に良い影響を、与えてくれるのではないかと期待している。

真の民主主義国家になっていくのではないか?